咳をしても一人
そう詠んだのは誰だったか、種田山頭火だったか。軽く検索をかける。
尾崎放哉。知らない名だった。教科書で何度か見たことがあるはずなのに、すっかり記憶の外に追いやられていた。句と名前のインパクトがそれぞれ一緒くたになって誤った情報を認識していたのだ。
彼はこの句で咳の音がただただ部屋に響くだけの寂寥感と、それに伴う死の気配を表したという。
午前二時三十三分、俺は今その苦しさとやるせなさを身をもって感じている。
先週頭から喉の痛みが続き、それに伴う咳に三日ぐらい前から悩まされている。間違いなく人生でいちばん咳をしている数日間だと断言できる。
喉の奥にずっと腫れぼったさとガシガシしたような刺激を抱えながら、乾いた咳を延々と繰り返すだけになっている。
あまりにも咳が止まず、そして咳をしたところで吐くものが米粒大の薄黄緑の痰ぐらいなものだから、ただただひたすらに空気を吐き続けているのとおんなじような状態であるわけで、余裕のないポンプで空気を無理矢理送るかのごとく肋骨の真ん中あたりがキュッキュッと締めつけられ、酷いときにはその締めつけが体全体に及び、腹の底から胃酸かなにかを絞り出さんとしているかのような感覚に陥り、それがまた苦しい。
のど飴を舐めたり、頻繁に水を飲んだり、菓子を食ったり、うがいをしたり、誤魔化し誤魔化しやりくりしているが、気休めと言うにも心許ない。抑えられない発作のように咳が出る。
なにより酷いのが、飲食のために口にものを含んでいても問答無用で咳が出そうになることだ。ここまで咳が我慢できないことは生まれて初めてだ。
大抵は咳がこみ上げる直前で飲みこむことで切り抜けていたが、昨日の夕食どき、ついにたまらず味噌汁を吹き出してしまった。
ゴホゴホと咳込む俺に「大丈夫なの」と声をかける母と妹の視線が辛い。
「あんまり焦って食べないほうがいいよ」
違う、焦って掻き込んだりなどしていない。至って普通に食っていただけだ。しかしそう説明しようにも、咳と喉の痛みで思うように声を出すこともままならないため仕方なくウンウン頷くしかなかった。惨めだ。自分の身体がこうも思い通りにいかないことが情けなく、やるせない。
そう、咳もそうだが、思うように喋れないというのは想像しているよりもかなり辛い。そのくせ咳を我慢したら「ヴオオオオエエ」とおよそこの世のものとは思えない唸り声だけはっきりと出るものだから、自分でも気味悪く驚いてしまう。
しかし本当にどうにかならないものか。
はじめは軽い喉風邪程度だと思っていたのに、こんなことになってしまうとは。
もちろん医者にも罹った。
滅多に風邪を引かず、引いたとしても二三日でピンピンになる俺にとって「風邪で病院に行く」ということ自体が一大イベントであった。一刻も早くこの最悪の状態異常から逃れたかった。
ガサガサ声で受付を済ませ、問診票には事細かに体調の変化を記し、一縷の望みを託すかのごとく診察室へ向かった。若々しい中年の先生が座っていた。
「喉が痛くて咳が止まらないと」
「はい」
「痰もからんでいる、と、……口を開けて……あー、腫れてるねぇ」
「はい」
聴診器を胸と背に当て、
「うん、咽頭炎だねぇ。薬出しとくね。えー、咳止めと痛み止めと、痰を抑えるのと、あと熱が上がらないように頓服薬も」
「はい」
「うん、おわりです」
「はい」
……え、終わりですか。眼前の中年医師が腰掛けている椅子に乗っているライトグリーンに縁取られたオフィスチェア用骨盤サポーターを見つめながら話を聞いていた俺は呆気に取られた。
「あの、もう、大丈夫ですか」
「うん、もう大丈夫」
だらしなくはみ出た下着を整えながら俺は診察室を後にした。
「ありがとうございます」
こうも簡単に終わるものなのか。時間にして二分も経っていないように思う。咽頭炎。咽頭炎か。
時期が時期だし、コロナやインフルエンザ、あるいは肺炎の可能性も覚悟していたが、咽頭炎。
俺が大袈裟すぎるだけか、というより病院というものに期待しすぎなのか。この苦しみはよくあるものでそんな大層なものではないというのか。
いや、まぁしかし、少なくとも俺より先生のほうが症状について正しい知識を以て判断を下せるのは至極当然であり、何もしないとより悪化するのは火を見るよりも明らかであるから、病院に罹って下された診断の正当性に対して文句を言える筋合いなどはない、はずだ。
「千百円です」
俺の一時間はあの先生にとっての二分間と同等か、と虚しい相場を計算してしまう。
処方箋と領収書、諸々の書類を受け取り、すぐ隣りの薬局へ向かう。受付を済ませ、少し待つ。
「千五十円です」
薬ってそんなに高いのか。いや、こんなものか。これで少しでも善くなるなら安いものか、と言い聞かせる。
「ビニール袋、五円かかりますがどうされますか」
俺はそれで構わないという意で「大丈夫です」と言ったら、袋をくれなかった。
「あの、袋、ください」
ガサガサ声で言う。
「ああ、ごめんなさい」
「いえいえ」
薬剤師との間に生まれた愛想笑いの応酬が、事務的なやり取りの中に絶妙な人間味をもたらし、それが数日間外界とのコミュニケーションを"発声できない"という形で奪われた俺にとって、言いようもなく心地よかった。
ともかく、俺は薬を手に入れた。この状況を打破するためのきっかけを摑んだのだ。処方されたのは五日分。週明けには咳が止まっていることを祈りながら過ごすしかない。
そうして二日が経った。
一向に善くなる気配はない。
たしかにいちばん酷かった時よりかはマシになっている気もするが、しかし主だった症状の回復は未だ見込めない。
咳のために思うように寝付けないため、午前五時すぎまでスマホを眺めて気を紛らして寝落ちし、三時間ほどで咳のために目が醒めるという最悪のルーチンが組み上がってしまっている。
病を治すためには寝なければならず、文字通りすぐにでも床に臥したいのだが、寝ることが苦しいというジレンマ。普段から夜更かしばかりこいていながら、こういうときだけ健康な睡眠を欲するのは都合が良すぎるだろうか。
つづく、かもしれない。