無題

自尊心と自己肯定感と自己顕示欲と自意識過剰。それらがないまぜになってできた、「俺」という一人称で呼称できる自我なるものが日に日に崩れ落ちていくのを感じる。

じめじめと湿った「俺」の心は、風呂場の片隅のように黒くかびて、徐々に腐り朽ち果てぼろぼろになる。

なにがあったというわけではない。日々なにもないことが「俺」を保たんとする精神力の発揮を阻害している。誇れる過去も、活気ある今も、輝かしい未来もない。陽光も雨模様もない、ずっと曇天に覆われたような日々。

生き抜くことに手一杯というわけでもない。光と闇の間(はざま)で彷徨い、成す事も為すべき事もなく、時の死が加速しているのを肌身に感じることもなく、ただただ後悔が先に立たぬだけ。

そんな日々であっても(そんな日々だからこそ)、すくなくとも月一回は何かしらのイベントを挟むことを意識しているが、それは楽しみだからという以上に、人生から彩りが本当に全く失われることを恐れているからという意味合いが強い。

今「俺」の周りには、青い芝生が見渡す限りに広がっている。

己の人生を他人と比較することが無意味だとは頭でわかっていても、それに伴う薄黒い感情はどうしようもなく絶対的なものであるし、だけど「俺」にだって〇〇がある、と自分自身に言い訳できる材料がなくなったとき、果たして「俺」はどこに人生の意味を見出せばいいのかわからなくなってしまう。

そうやって鈍色の人生を少しでも色づけたいともがく「俺」の立ち振る舞いは、端から見ればどうにもちっぽけでみみっちいし、ふとした瞬間に襲われるやるせなさに対して太刀打ちできない。

この人生に花は咲かずとも、その道中で路端にぽつりぽつりと咲いている、名も知らぬ花の美しさを愛でたい。とかなんとか言っておけば聞こえはいいかもしれないが、小さな花のそばでしゃがみ込む「俺」の背中には、無視できない惨めさが漂っている。

そもそも、生きる理由があるのではなく、いろいろ理由をつけて死を先送りしているだけだ。本心は、叶うならば誰に気づかれることもなく、今すぐ綺麗さっぱりと「俺」を消し去りたい。

しかしそうはいかない。幸いなことに「俺」には愛してくれる家族や、よくしてくれる友人、先輩、後輩、諸々の関係がある人々がいる。もし「俺」を消したとして、その人たちの悲しみを想像し、実感できている以上、今、消すわけにはいかないのだ。

そういった感性を失わないためにも、誰かと会い、どこかへ行き、たわいもない話をする。この幸せを享受できることには、心から感謝しなければならない。

 

もう夜半も過ぎ、丑三つ時だ。

週明けにつれ雨脚が強くなるらしい。この雨は桜を散らすだろう。今年も花見はできずじまいだ。

 

来年こそは、上野の満開の桜を見に行きたいな。

もうわかりきっているというか半ば諦観しているけれど、あと数年もしないうちに "完全オリジナルで完璧な絵を出力するAI" は完成するだろう。ほんの数年前まで、AIが発達したとしてもクリエイティブな仕事が奪われることはない、とか言っていたのに。人間がクリエイティブな生き物であるが故の弊害か、AIをクリエイティブにさせようと学習させまくった結果だ。文字通り秒で100枚の絵を出力できる。かがくのちからってすげー。

そもそもこのAI絵についての話題も、この世の事象の大半と同じように、絵を描くことに一定の価値やプライドを見出していない人々からすれば対岸の火事、描いたのがAIか人間かなどどうでもいいことなのだ。タグのないAI絵がバズりまくっているのを見ればそれは明確だ。

そもそもタグによるゾーニングも自発的な表明でしかなく、黙ってしれっと上げたら誰にも見破れない、というよりそもそも見破る必要がない。世間一般からすれば、絵に費やした時間やそこに至るまでの努力というものは、見る人がその絵を描いた人自身に価値を見出さない限り完全に無価値であり、そういう作家論的な観点を排除して絵の魅力でのみ評価されるというのは、ある意味公平で正しい姿勢なのかもしれない。むしろそのようにアプローチできる絵をAIが生み出せているという事実には素直に感心するし、参考にすべき点があるとも思う。

 

ただやはり、俺は絵を描く側の人間であるから、いろいろ思うところはある。

AIに絵を出力させ、SNSに上げて承認欲求を満たす。

それ、楽しいのか?虚しくないのか?

と思ったが、たぶん大半の人は「絵を描く」というより「AIで絵を出力すること」が面白いのであり、AIのべりすとやChatGPTで文章を生成するのと同じ感覚なのだろう。それだけならまだいい。

俺が腑に落ちないのはAI絵を自分の力で描いたと発言する勘違いバカが多いことだ。特に他人の絵をAIに食わせて自作発言するゴミカス野郎。お前には道徳がないのか。まあ太古の昔からこの界隈では実績のあるプロでさえトレパクで炎上することはままあったし、AIによって母数が指数関数的に増えたことでそういうカスが大量に出てくるのはある意味自然の摂理というか、人間の不完全な部分が露呈しているだけなのだろう。

そんな現状に憤りを感じ、Twitterで反AIを掲げてお気持ち表明したところで状況が好転することはないし、世間一般から見ればそれはチンケなプライドを持った自称絵描きの悪あがきにも満たない些末なわめきでしかない。

 

もはや俺みたいな底辺が描く絵に価値はない。

 

それでも俺は絵を描くのをやめない。

何時間もかけて試行錯誤しながら絵を描く楽しさ、納得のいく絵を描きあげたときの高揚感、誰かに絵を見てもらって褒められたときの嬉しさ、過去の絵を見返したときに実感する自らの成長。 世間一般でこれらがどれだけ無価値になろうとも、俺にとってはその全てがかけがえのない体験だ。

なにより、俺は俺の描いた絵が好きだ。そりゃ昔に比べたらある程度は上手くなったとはいえまだまだ下手くそだと思うし、時にはあまりの下手さに絶望し、本気で死にたくなることもある。しかし下手なりに完成させた絵は愛おしいと感じる。俺自身が俺自身の感性と技術を以て1から描きあげたという紛れもない実感があるからだ。

俺はこの実感、確信を失いたくない。何もかもが中途半端な俺の人生の中で、描きあげた絵だけが自分の存在価値をはっきりと自覚させる。俺が唯一見出した磨くべき才能。誰かのためじゃなく、俺自身のために。

 

 咳をしても一人
 
 そう詠んだのは誰だったか、種田山頭火だったか。軽く検索をかける。
 尾崎放哉。知らない名だった。教科書で何度か見たことがあるはずなのに、すっかり記憶の外に追いやられていた。句と名前のインパクトがそれぞれ一緒くたになって誤った情報を認識していたのだ。
 彼はこの句で咳の音がただただ部屋に響くだけの寂寥感と、それに伴う死の気配を表したという。
 午前二時三十三分、俺は今その苦しさとやるせなさを身をもって感じている。
 先週頭から喉の痛みが続き、それに伴う咳に三日ぐらい前から悩まされている。間違いなく人生でいちばん咳をしている数日間だと断言できる。
 喉の奥にずっと腫れぼったさとガシガシしたような刺激を抱えながら、乾いた咳を延々と繰り返すだけになっている。
 あまりにも咳が止まず、そして咳をしたところで吐くものが米粒大の薄黄緑の痰ぐらいなものだから、ただただひたすらに空気を吐き続けているのとおんなじような状態であるわけで、余裕のないポンプで空気を無理矢理送るかのごとく肋骨の真ん中あたりがキュッキュッと締めつけられ、酷いときにはその締めつけが体全体に及び、腹の底から胃酸かなにかを絞り出さんとしているかのような感覚に陥り、それがまた苦しい。
 のど飴を舐めたり、頻繁に水を飲んだり、菓子を食ったり、うがいをしたり、誤魔化し誤魔化しやりくりしているが、気休めと言うにも心許ない。抑えられない発作のように咳が出る。
 なにより酷いのが、飲食のために口にものを含んでいても問答無用で咳が出そうになることだ。ここまで咳が我慢できないことは生まれて初めてだ。
 大抵は咳がこみ上げる直前で飲みこむことで切り抜けていたが、昨日の夕食どき、ついにたまらず味噌汁を吹き出してしまった。
 ゴホゴホと咳込む俺に「大丈夫なの」と声をかける母と妹の視線が辛い。
 「あんまり焦って食べないほうがいいよ」
 違う、焦って掻き込んだりなどしていない。至って普通に食っていただけだ。しかしそう説明しようにも、咳と喉の痛みで思うように声を出すこともままならないため仕方なくウンウン頷くしかなかった。惨めだ。自分の身体がこうも思い通りにいかないことが情けなく、やるせない。
 そう、咳もそうだが、思うように喋れないというのは想像しているよりもかなり辛い。そのくせ咳を我慢したら「ヴオオオオエエ」とおよそこの世のものとは思えない唸り声だけはっきりと出るものだから、自分でも気味悪く驚いてしまう。
 しかし本当にどうにかならないものか。
 はじめは軽い喉風邪程度だと思っていたのに、こんなことになってしまうとは。
 もちろん医者にも罹った。
 滅多に風邪を引かず、引いたとしても二三日でピンピンになる俺にとって「風邪で病院に行く」ということ自体が一大イベントであった。一刻も早くこの最悪の状態異常から逃れたかった。
 ガサガサ声で受付を済ませ、問診票には事細かに体調の変化を記し、一縷の望みを託すかのごとく診察室へ向かった。若々しい中年の先生が座っていた。
 「喉が痛くて咳が止まらないと」
 「はい」
 「痰もからんでいる、と、……口を開けて……あー、腫れてるねぇ」
 「はい」
 聴診器を胸と背に当て、
 「うん、咽頭炎だねぇ。薬出しとくね。えー、咳止めと痛み止めと、痰を抑えるのと、あと熱が上がらないように頓服薬も」
 「はい」
 「うん、おわりです」
 「はい」
 ……え、終わりですか。眼前の中年医師が腰掛けている椅子に乗っているライトグリーンに縁取られたオフィスチェア用骨盤サポーターを見つめながら話を聞いていた俺は呆気に取られた。
 「あの、もう、大丈夫ですか」
 「うん、もう大丈夫」
 だらしなくはみ出た下着を整えながら俺は診察室を後にした。
 「ありがとうございます」
 こうも簡単に終わるものなのか。時間にして二分も経っていないように思う。咽頭炎咽頭炎か。
 時期が時期だし、コロナやインフルエンザ、あるいは肺炎の可能性も覚悟していたが、咽頭炎
 俺が大袈裟すぎるだけか、というより病院というものに期待しすぎなのか。この苦しみはよくあるものでそんな大層なものではないというのか。
 いや、まぁしかし、少なくとも俺より先生のほうが症状について正しい知識を以て判断を下せるのは至極当然であり、何もしないとより悪化するのは火を見るよりも明らかであるから、病院に罹って下された診断の正当性に対して文句を言える筋合いなどはない、はずだ。
 「千百円です」
 俺の一時間はあの先生にとっての二分間と同等か、と虚しい相場を計算してしまう。
 処方箋と領収書、諸々の書類を受け取り、すぐ隣りの薬局へ向かう。受付を済ませ、少し待つ。
 「千五十円です」
 薬ってそんなに高いのか。いや、こんなものか。これで少しでも善くなるなら安いものか、と言い聞かせる。
 「ビニール袋、五円かかりますがどうされますか」
 俺はそれで構わないという意で「大丈夫です」と言ったら、袋をくれなかった。
 「あの、袋、ください」
 ガサガサ声で言う。
 「ああ、ごめんなさい」
 「いえいえ」
 薬剤師との間に生まれた愛想笑いの応酬が、事務的なやり取りの中に絶妙な人間味をもたらし、それが数日間外界とのコミュニケーションを"発声できない"という形で奪われた俺にとって、言いようもなく心地よかった。
 ともかく、俺は薬を手に入れた。この状況を打破するためのきっかけを摑んだのだ。処方されたのは五日分。週明けには咳が止まっていることを祈りながら過ごすしかない。
 そうして二日が経った。
 一向に善くなる気配はない。
 たしかにいちばん酷かった時よりかはマシになっている気もするが、しかし主だった症状の回復は未だ見込めない。
 咳のために思うように寝付けないため、午前五時すぎまでスマホを眺めて気を紛らして寝落ちし、三時間ほどで咳のために目が醒めるという最悪のルーチンが組み上がってしまっている。
 病を治すためには寝なければならず、文字通りすぐにでも床に臥したいのだが、寝ることが苦しいというジレンマ。普段から夜更かしばかりこいていながら、こういうときだけ健康な睡眠を欲するのは都合が良すぎるだろうか。
 
 つづく、かもしれない。